やっぱり読まんでよかった!
原作(コミック含む)を読んで、つくづく感じた。

「見るまで読まない!」
私のスタイルだけど、今回ほど、読まなくてよかったと思ったことはない。

だって!
見たいシーンがてんこもりじゃんか!

・平楽寺でお国を抱えて屋根にジャンプする無門
・戦う無門を見て驚愕するお国
・大膳の前で肋を外し繩抜けする無門
・後ろから飛んできた矢をノールックで掴む無門
・八方手裏剣で一度に複数の敵を倒す無門
・皿のような物を浮かべて水の上を渡る無門
・侍に化け信長に謁見する無門
・お国の墓参りをする無門

こんな垂涎シーンがあることを知ってしまったら
映画館で、ないじゃんっ!ってがっかりするに決まってる。
そんで、登場人物もエピもだいぶ削られてるから、えらく混乱した筈。

映画を見た後で
原作小説流し読み →コミック →原作小説
読みました。
コミックは、エピソードが前後したり多少の脚色があったりするけど概ね原作に添った話で入りやすかったし、
小説でピンとこなかったシーンが、画がつくことで合点がいったり・・・
とにかく
映画で無門が確定したあとで、原作を読むと、映画では描ききれていない背景もわかって、キャラが肉厚になった気がする。

その上で映画を再度見ると、また余計にぐっとくるものがあった。



無門は怠け者じゃない
私の結論。

「切り合いなんかしたら、死ぬかもしれん」
門を開け、帰ろうとしたところを呼び止められ、そう答える。

原作では、
「刃傷沙汰なんて御免じゃ。わしの役目はこれで終わり。帰るよ」
後に無門の小屋を訪ねてきた木猿に
「刀術を使えば死ぬやも知れぬ。死ねば、せっかくさらってきた女子も抱けぬではないか。」
となってる。

映画では出てこなかったけど
無門はお国をさらって来て2年、仕事(殺し)をしていないらしい。
忍びの生業は、術を買われて他国に行き、
諜報活動や暗殺などを行う。
凄腕の無門ならば、引く手あまたで稼げる筈なのに
それをしないのはやっぱり・・
お国の為、それ以外にない。

(原作で) 小屋に来た木猿と入れ代わりに外に出ようとするお国に
「三間より離れんでくれよ。気配がつかめん」
いやいや。5メートル離れるなって・・・ 子どもか!(笑)
一瞬くすっとしたけど、
よくよく考えると夜だし、ここは伊賀だ。
そして、無門は、里の者からつま弾きにされているともあった。
それでなくてもよそ者の女
そして、つま弾き者の無門が連れて来た気位の高い女
里の者がよく思っているわけがない。
心配で仕方ないんだね。

もし、無門が他国で死んでしまったら、
お国はこの虎狼の族の中にひとりで残されてしまう。
無門が働かない(刀術を使わない)のは
自分の命が惜しいのではなく
お国の傍にいる為なんだと思う。

お国に惚れる前は、他国での仕事のついでに
女を術にかけ、遊んでいた。
しかし、お国には術がきかず
あれこれ口説いているうちに「夫婦に」と言ってしまった。(笑)

映画では二回とも術に失敗し、見ていた息子は「下手すぎ」と呟いていたが
原作では、「無門はしくじったことはない。」とある。
思い通りにならない女は初めてで、が、故にどうしても手にいれたかったのかもしれない。
くどき倒した挙げ句、「夫婦に」などと口走っちゃったんだね(笑)
で、術のかかってないお国ちゃんと一夜をすごし、完全に虜になったんやな(笑)
お国もさらわれたというよりは自分の意志でついてきたみたいだし。
だいたいその気がないなら、口説かれてる間にいくらでも人を呼べた筈だから
なんならお国が「夫婦になれ」という言葉を誘導したんじゃないかとすら思えてくる。
要するに、お互い一目惚れじゃんか。


One day  One way  One time
「つなぐ」の歌詞
無門の人生は、まさにその通りだった。
次の瞬間、死ぬかもしれない身
今日、この一瞬が楽しければよかった。

「名前がないってどういうこと?」
私は、不思議で仕方がなかったが、やっと合点がいった。
家畜には名前をつけない。
ハサミやボールペンにも名前をつけない。
上人(忍)にとって、下人(忍)は、本当にその程度の価値しかないのだと。

無門は幼いころから人を騙し、盗み、そして殺すことを是として叩き込まれた。その過程で裏切った仲間を殺すのも日常のことであった。こんなこと人間の心が傷つかぬ筈がない。無門が絶えずへらへらと深刻さを避け、あらゆる物事に対して斜に構え、他人の不幸にさえも小馬鹿にしたように冷笑を向けるのは、自らの心を守る為にはそれが不可欠のことだったからだ。この男は自らの心を欺き続けていた。この男がもし自らの半生を直視していたならば、とうの昔に狂い死にしていたことだろう。この男の半生は直視するには余りに過酷であった。やがて一人前の忍びに成長し「無門」という道具としての名を与えられたとき、この男は自らを韜晦していることにも気づかぬ男になり果てていた。


だから、無門には平兵衛の悲しみが理解できなかった。

映画の下山と百地の戦のシーン
忍び達がゲラゲラ笑って人を殺している
シューティングゲームをやっているような感覚かもしれない。
何人やっつけたかで高得点が出る。
無門が首に賞金をかけたときの忍び達がまさにそんな感じだった。
(にしても、ちょっと笑いすぎであれだけは違和感があったかな。
でも、満島さん演じる次郎兵衛は、子どものように瞳を輝かせワクワクしてる感じが絶妙だった。)
人を人として見てない。
というか、彼らは自分すら「人」として扱ってないんだろう。

私は子どもができてから、
映画やドラマの(本来痛快である筈の)主人公が敵をばったばった倒すシーンで
心が傷むようになってしまった。
平兵衛のように、「あの人にも家族がいるだろうに」と思ってしまう。

人を愛すると、世界が違って見える
大切なものができると、他人の痛みにも鈍感でいられなくなる

お国と接するうち、無門の何かが少しずつ変わって行ったんだと思う。

原作では、「無門の想い女」と表現されている。
絶妙な表現だなと思う。
まだ女房でもなし、恋人というには奇妙な関係だし(笑)
うっかり「夫婦に」と連れてきてしまった彼女だったかもしれないが
日に日に存在が大きくなり
たぶん、お国の為に生きているといっても過言ではないだろう。

まるで幼児が母親の顔色を伺うが如く、お国の機嫌を気にする無門。
叱咤激励し、無門を導こうとするお国は、
母を知らない無門にとって「母」をも思わせる存在だったのかもしれない。

自分よりもお国。
ただ、彼女が笑顔でいてくれたらいい。
「愛」だ。


「わかってたまるか」
北畠の牢で平兵衛の言葉にそう呟き返していたが
たぶん、自分の本心に気づかぬように吐いた言葉なのでは?
平兵衛の言葉に納得するということは、
自分の今まで、自分の存在を否定することになってしまうから
気づき初めてはいるが、それを意地でも認めたくないのだ。



平兵衛との川を終え、
信雄をどうこうするよりもまずは、やつらだ。
原作には

激しい衝動がこの男の身体を駆けめぐっていた。
(三太夫ら十二家評定衆を、まとめて地獄にたたき落とす)
お国を危うい目に遭わせたのは奴らだ。平兵衛を伊勢へと放ち、丸山城を焼き、伊賀攻めへと誘導したのは十二家評定である。

とある。
平楽寺での
「ようも我が想い女を危うき目に遭わせてくれたな」
映画では変更されてたけれど、
予告の
(ようも我が女房を危うい目に遭わせてくれたな)
につながる怒り。


しかし、私は
映画の無門は静かに怒っているように見えた。
激しく怒っているというよりは、悲しすぎてどうしていいかわからない。
昔の無門には「悲しい」という感情すらなかっただろう。
平兵衛の怒りすら本当の意味で理解していない筈だ。
なぜ自分がこんなに「悲しい」のか、わからないから苛立つ。
そうだ、やつらだ。
全て十二家評定が余計なことをしたせいだ
そして、伊賀にも、自分にも、戦国の世にも
いろんなものに苛立っているように見えた。

今しがた肩を並べて帰って来た者たちが自分に毒矢を向けたとき
「虎狼の族か・・・」
無門は悟り、落胆したかに思えた。
同時に、落胆した自分を嘲った。
ついこの間までは自分もあっち側だったろうよ。
そんな複雑な思いが混じった言葉に聴こえた。

自らの身に降りかからねば、他人の不幸が理解できない者がいる。他人がどれほど苦しんでいるのかと、思いもかけない者がいる。無門という馬鹿忍者がそれであった。
自分でも気付いていないが、この馬鹿忍者にとってお国を想うことは、この男がまともな人間になる唯一の手がかりであった。無門がさんざん悩まされながらもこの女にこだわったのは、このためである。
それを無門は失った。
そしてここで初めて、下山平兵衛の生真面目さに、わずかながらも心打たれていた自分に気付いた。平兵衛に対してだけではない。善悪は抜きにして、信雄の妻や鉄たちが見せたある種の一途さに、小さく心を揺さぶられていた自分にようやく気付いた。
「わしはなんという馬鹿だ─── 」


上忍からは道具として扱われ
他国の武将からは蔑まれ
同じ里の者からも孤立している無門

お国は無門を「人」として扱ってくれる唯一の存在だった。
心の拠り所だった。
それに失ってから、やっと気づいてしまった。


次郎平兵衛を殺された平兵衛は無門に切りかかった。

無門は、それすらもしない。
ただ、お国を抱えて去っていく。
人間、本当に大事なものを失ったとき、心に穴があく。

最後の瞬間にも無門に人として「名」を聞いてくれたお国。
殺したヤツらよりも、そんな事態を招いてしまった、自分に怒っていたんだろうか。

そして、無門は人間として生きる道を選ぶ。



原作では「鉄」という鍛冶屋の子どもと懇意にしており
彼を連れて伊賀を出るが

映画では、お国が気にかけていた「ネズミ」と呼ばれていた子どもになっていて
「父」「母」と呼ばせていた。
原作よりも、より人らしく描かれていると思った。

無門は、少年を育てることで人として生きた。
「ネズミ」を助けるというよりは、無門には少年が必要だったんだと思う。

映画のエンドロールで
手を引いていた少年が「離せよ!」と言わんばかりに手を抜き離れるが
やがて、自分から近寄り、無門の手を握る。

このときの無門の気持を思うと涙が止まらなくなる。